大仏殿ではつい巨大な大仏さんにばかり目がいってしまうところ、今回はその脇を固める仏たちを見ていきたいと思う。
大仏殿って大仏さんだけじゃないの?と思う人もきっとたくさんいるだろう。正直なところ、私も長年奈良に通い何度も大仏殿に入っていて、脇侍たちがいることを知ってはいてもちゃんと見てきたことはない。前エントリで大仏の来し方を見てきたが、この脇侍たちも当然、大仏と運命を共にしてきているわけで、天平時代のものは遺っていない。
現在の大仏殿には、本尊盧舎那仏の他に4体の仏像が納められている。本尊盧舎那仏に向かって左に虚空蔵菩薩坐像、右に如意輪観音菩薩坐像で、盧舎那仏と合わせて三尊形式。あと、盧舎那仏の後ろ左隅に広目天立像、右隅に多聞天立像である。
それでは創建当初の大仏殿の中はどうなっていたのだろうか?(今回は合成はありません(笑))
平安時代後期に大江親通によって記された『七大寺日記』と『七大寺巡禮私記』は、当時の奈良の寺院の様子を知ることのできる非常に貴重な史料である。私も卒業論文では大変にお世話になった。そこには、脇侍仏についてこのように書かれている。
『七大寺日記』
「脇侍菩薩像二軀、並塔、面長六尺、廣五尺、口長二尺一寸、耳長五尺九寸、肩長五尺九寸、目長二尺三寸、鼻下徑一尺八寸」
「四天王像四柱、高各四丈、天平十五年歳次关未十月十五日(後略)」
「中尊盧舎那佛 脇士二躰(如意輪 虚空蔵)」
『七大寺巡禮私記』
「其脇士者左觀世音、右虚空藏(後略)」
「金色捻并坐像二躰(大各三丈)、皆坐八角須弥座、各□□色蓮花、左觀世音并像、右虚空藏并像、(中略)以天平勝寶元年四月八日奉創、同三年九月廿三日□」
「四天王捻立像四軀(高各三丈七尺、或云四丈)、同像足下鬼形等(臥長各二丈八尺、高三尺)、此四天内、天平勝寶二年五月廿七日(後略)」
(カッコ内は史料にある注記を必要に応じて挿入、太字、中略、後略については筆者)
簡単に言えば、盧舎那仏の左(向かって右)に観音菩薩、右(向かって左)に虚空蔵菩薩があり、どちらも像高は三丈(10mほど)、天平勝寶元年(749年)に造られた物であることがわかる。それ以外には四天王4体があり、像高は三丈七尺(11mちょっと)〜四丈(13mほど)、天平勝寶二年(750年)に造像されている。
それ以外にも、高さ五丈(16mちょっと)ある2枚の刺繍仏(不空羂索観音および観自在菩薩)がかけられていたという記述もある。
この脇侍および四天王は、この史料が事実だとすると「捻」つまり、塑像であったということになる。高さ10m〜13mの塑像というのはかなりのものだと思われるが、現在遺る最大の塑像である岡寺(奈良県)の如意輪観音も、現在の像高が5m近くある巨像であり、後述のとおり、もとは半跏像であったことを考えると造像当初は7〜8mはあったであろう。東大寺ともなれば、さらに巨大な塑像が作られたという可能性も十分にありそうだ。考えてみると、大仏を作る時も最初は”塑像”を作る(そこから型を作って銅を流し込む)わけで、その大きさの塑像ができない、というわけではないだろう。
四天王も塑像であったとすると、時代的に、その尊容は戒壇院の四天王像のようであったのかもしれない。ただ、この「捻」という字は、偏の部分が虫食いに遭っており、平安時代に土偏をあてがわれているが、そうなると「低い」という意味でもあるという。10mを超える像でもあり文の流れとしても「低い」という言葉が入るのも変であるし(大仏と比較してという意味で低いという表現を使うことはあるかもしれないが)おそらく塑像であったということなのだろう。
時代的に、塑像としては鎌倉時代や平安時代のような派手さのある甲冑の神将像はなく、750年代までに作られたものとしては、最も派手なものでも法華堂執金剛神くらいであろう。新薬師寺十二神将はやや大げさな表現が入ってくるが時代が降るし、それでも派手さはない。戒壇院四天王のようなシンプルながら巨大な四天王が並んでいたと想像すると、これもまたなかなか見応えがありそうだ。
さて、それでは現在のものと比較していこう。
現在の大仏殿の仏像は、盧舎那仏の体部を除くと、すべて江戸時代の復興時の仏像である。
まず、大仏さんの脇侍仏である両菩薩像から。これらは京都の仏師山本順慶一門と、大坂の仏師椿井賢慶一門による作で、30年もの期間を要したという。
右脇侍(向かって左) 虚空蔵菩薩坐像(江戸時代 宝暦2年(1752年)ごろ) 像高7.10m 寄木造彩色 国指定重要文化財
左脇侍(向かって右) 如意輪観音坐像(江戸時代 元文3年(1738年)ごろ)像高7.22m 寄木造彩色 国指定重要文化財
脇侍に如意輪観音と虚空蔵菩薩というのは創建時と同じらしい。
盧舎那仏三尊形式の脇侍が何であるのかは、調べても今ひとつよくわからない。いろいろな説があるようだが、ハッキリしないようだ。唐招提寺金堂も盧舎那仏の三尊だが、あちらは根本経典が違うことや、唐の影響がとりわけ強いということもあってか、全く違う表現である。
ひとつ気になるのが、この如意輪観音は、もともとは如意輪観音としては作られていなかったと考えられている点だ。全体を説明するにはあまりに長くなってしまうので簡単に説明するが、如意輪観音と呼ばれるようになったのは、醍醐寺との関連があると見られている。
如意輪観音というのは二臂(二本の腕)という表現は儀軌にも経典にもなく、儀軌では観心寺像のように六臂で輪王座(片膝を立てて足裏を合わせる)をとるらしい。しかし平安時代末期〜鎌倉初期にかけて著された『図像抄』には、石山寺(現在の滋賀県大津市)の本尊が二臂ながら如意輪観音であるという表記が登場する。二臂で右足を半跏とし、左足は踏み下げている図で表されている。そしてこれと同じ形として、岡寺本尊、そして東大寺大仏殿の観音が挙げられているのである。
ただ、儀軌にない、ということからして、これらの像は本来は如意輪観音ではなかったと考えられる。奈良時代の正倉院文書からしても石山寺本尊は「観音」と呼ばれていたようであり、二臂半跏のこうした状態を「石山様」と呼んだという史料も存在する。空海の密教伝来後に、醍醐寺の僧・淳祐が石山寺に入ったあたりから「如意輪観音」と呼び換えられたらしい。淳祐は菅原道真の孫であり、空海の高弟・聖宝の醍醐寺での孫弟子である。聖宝は如意輪観音と准胝観音を本尊として醍醐寺を開いたその人であり、かなりの如意輪信仰者であったそうだ。
そしてこの淳祐の弟子に法を受けた奝然(ちょうねん)は東大寺の第51代の別当であった。奝然と言えば京都嵯峨清涼寺の釈迦如来で著名であるが、東大寺の別当も勤めていたとは知らなかった。奝然から三代は淳祐との関わりの深い僧が東大寺の別当を勤めていて、東大寺は実は真言宗との関わりも深い。そうした時期に、大仏殿の左脇侍の観音も如意輪観音と呼ばれるようになったという。醍醐寺の創建時の本尊・如意輪観音(今は失われている)も二臂であったというが、醍醐寺に六臂ながら左足を踏み下げるという不思議な平安時代作の如意輪観音が遺されているのも、何かそうした由来のあることなのかもしれない。
ちなみに、伝如意輪観音と呼ばれる中宮寺半跏像などの像も、やはり叡尊など、醍醐寺出身の真言宗系僧侶たちによって如意輪観音と呼ばれるようになったそうだ。
ということで、やや複雑で長くなったが、現在の東大寺大仏殿の如意輪観音は、もともとは観音と呼ばれていたという説の紹介であった。
さらにもう一つ注目したいのが、もともとは半跏像であった、ということである。
岡寺のあの巨大な塑像観音が半跏であったというのは驚きであるがこれはすでに台座の調査において判明しているという。そして、東大寺の脇侍像も、もともとは半跏像であったということになる。
前エントリでも紹介した『信貴山縁起絵巻』でも、大仏に向かって右の間からのぞいている左脇侍が、左足を踏み下げているのが見て取れる。
右脇侍についても、観音像とは左右対称の足と印であったということだが、考えてみると、額安寺(奈良県)に安置されている日本最古の乾漆虚空蔵菩薩像も、やはり半跏像である。あちらは左足を踏み下げているが、やはりそうした造形が見られる。
また、龍華寺(神奈川県)で発見された脱活乾漆の菩薩半跏像といい、東京国立博物館や東京藝術大学に保管される菩薩半跏像といい、天平時代にはそうした半跏像の菩薩という造形が流行していたのかもしれない。それが大仏殿に反映されたこともあり得るだろう。
現在は両像ともに結跏趺坐をしている。なぜかはわからないのだが、江戸時代の再興時にそうなったのであろうか。岡寺本尊の如意輪観音も現在は結跏趺坐した姿に改変されている(頭部以外はほとんど後補になっている)が、こちらはお堂のサイズの都合かもしれない。
とは言え、大仏殿脇侍の両像は7mを超える堂々たる素晴らしい姿であり、江戸時代を代表する仏像として知られる。大仏があまりにも大きいので小さく見られるが、これが独尊でいたら、圧倒的な迫力であろうと思う。
南大門の仁王像はかなり大きいが、これらがだいたい8m超である。あれより1mほど小さいだけ、と思うと、相当な大きさであることが実感できるかもしれない。そうした巨大かつ圧倒的な2体の脇侍の影をも薄く感じさせてしまう大仏さんというのは、もう、ものすごいパワーを持っている、ということなのだろう。
それでは大仏の後方、大仏殿の背面近くの両隅に目を移してみよう。
北西隅 広目天立像(江戸時代) 寄木造彩色
北東隅 多聞天立像(江戸時代) 寄木造彩色
見るも見上げたり、堂々とした巨像である2体の天部像に見下ろされるのはなかなかの迫力である。本来、四天王であるから4体あるはずであるが大仏殿の中には2体しかいない。4体とも作る予定であったようだが、結局は2体のみしか作り上げられなかった、ということらしい。残りの増長天と持国天は頭部まで作られていて、写真を撮るのを忘れてしまったのだが、大仏殿の中に飾られている。
三尊脇侍の2体の菩薩像については少ないものの情報が何とか出てくるのであるが、この二天については情報がなかなか出てこない。とりあえず江戸時代の復興像であることは間違いないようだが、現在の像高の情報は今ひとつよくわからなかった。しかし、堂々たる体躯の表現といい、甲冑や冠の細かい意匠、静かに深い怒りを秘めた表情といい、素晴らしい仏像である。今回、アップで写真を撮るまでは瞳が入っていることには全く気づいていなかった。
鎌倉復興時には、慶派一門が四天王を造像しており、高野山霊宝館に安置されている等身大の快慶作の四天王像にその造形を想像することができるかもしれない。現在の巨大な二天像に見下ろされていると、高野山の四天王像を想起しつつ、慶派仏師の造った四天王にもこんな雰囲気で見下ろされていたのだろうな、と想像しやすいと言えるかもしれない。
東大寺大仏縁起絵巻(室町時代)には、平家の焼き討ちで燃えさかる炎の中、カラフルな四天王がハッキリと描かれている。鎌倉期の絵巻を写した絵巻ということではあるものの、おそらく創建期の尊容を表してはいないだろう。
広目天の邪鬼もかなり巨大だ。何だかアンパンマンのように丸々しててかわいい。
ということで、2回にわたって大仏殿の仏像の歴史について書いてきたが、いかがだっただろうか。長い文章になってしまったが、せっかくなのでいつもとは違った視点で書いてみた。
ゴールドでグレートな金銅大仏さんと、塑像彩色の10mを超える巨大な踏み下げ脇侍&13mもあったと思われる巨大四天王像が林立し、さらには大仏と同じくらいの高さの2枚の巨大な刺繍仏がかけられていたという創建当初の東大寺大仏殿。どんなにすごい光景だったのか、タイムマシンがあったら最も訪れてみたいと思う場所の一つである。
大仏殿ではつい大仏さんにばかり目が行きがちのところ、現在のものは三代目ながら、大仏さんと一緒に激動の歴史を経験してきた現在の脇侍たちにも注目すると、また違った大仏殿の楽しみが広がるのかもしれない。
※参考文献
『東大寺大仏左脇侍と如意輪観音信仰』清水紀枝(早稲田大学大学院文学研究科紀要 2012)
『東大寺(1)古代』川村知行(保育社「日本の古寺美術」1986)
『東大寺(2)中世以降』浅井和春/浅井京子(保育社「日本の古寺美術」1986)
『東大寺・新薬師寺』(集英社「全集日本の古寺」(11) 1984)
『東大寺大仏展』図録 (2010 東京国立博物館)
『東大寺展』図録(2014 あべのハルカス美術館)
【東大寺金堂(大仏殿)(とうだいじこんどう・だいぶつでん)】
〒630-8211 奈良県奈良市雑司町406-1
TEL:0742-22-5511
拝観料:500円
拝観時間:最長7:30〜17:30 最短8:00〜16:30(時期によって細かく変動するので詳細はウェブサイトを参照)
アクセス:近鉄奈良駅から徒歩30分
駐車場:近隣に有料駐車場がある
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コメント
コメント一覧 (3件)
突然のメール失礼します。先日、岐阜県のお寺巡りの事前準備の際、こちらのブログが大変役に立ちました。
おかげさまで浄土寺にお参りに行くことが出来ました。誠にありがとうございます。
ゾゾタケさんは何時だったか名仏研の忘年会に出席していませんでしたか?
名古屋駅近辺の居酒屋で、お話したことはなかったですが、同席していたような記憶があります。
しかしどの記事も情報量が豊富で感心しました。
>もみじ様
ご覧いただきありがとうございます!
浄土寺のブログがお役に立てたというのは本当に嬉しいです。自分もいろいろなブログに情報をいただいて
拝観できているので、自分の情報もぜひ共有したいと思って書いています。浄土寺の仏像はいいですよね。
並んでいるというのがまた良かったです。
名仏研忘年会でお会いしてるかもです!僕は2011年と2012年の忘年会に出席しております。
地元が愛知ということで、少なくとも年に1回は必ず帰りますし、またお話できたら嬉しいです。
今後ともどうぞよろしくお願いします!
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