長野県は近畿からすると決して近くはない場所であり、非常に山深く谷も深い。しかし、人の往来、文化の往来、という意味では、かつての信濃の地は現在とは違う。
現在の大動脈は太平洋側の東海道であるが、江戸までの東海道は大河あり海ありの難所続きであったのに比して、現在の岐阜県から長野県というのは、律令時代の東山道から中山道へと、歴史の長きにおいて中枢的な街道が通っていた。これは岐阜県の仏像を取り上げる時に毎回書いていることであるが、この地域にはそのような理由から高い文化が存在したと考えられ、素晴らしい仏像も多く遺されているのである。今後、岐阜だけではなく、ぜひこの長野の地の仏像も巡って歩いてみたいと思っている。
今回訪れた長野県最南部は大動脈の中山道沿いではないが、三河から信濃へと抜ける三州街道、そして天竜川沿いに遠江から伊那へと抜ける遠州街道が通っている。三州街道は現在の国道153号線と(豊田市以北については)同じルートであり、遠州街道は現在の国道151号線と(長篠以北については)同じルートである。川を伝って水運が使えるということもあり、伊那谷に上方の文化を最初に伝えた街道であるという。
その遠州街道沿いの長野県最南部である阿南地方の中心・阿南町には新野の行人様という即身仏が祀られていて、この日はその行者様の年2日のみ(4月29日および敬老の日の前日)のご開帳の日。
仏像仲間たち(うち1人は即身仏部(部員1人))とともにこの行人様の即身仏を拝観した。山の頂上の岩の上に即身仏を祀ったお堂があり、多くの人が訪れていた。周辺ではカラオケ大会も開かれて地域の秋祭り状態で賑やかだった。
この阿南町には「新野の雪祭り」という奇祭があり、その時に登場する神の化身がいるのだが、その巨大な像が道の駅に立っていてかなりの迫力であった。
そしてこの地域の特産でもある巨大な五平餅!なんだかオオサンショウウオの丸焼きのようにも見えてしまう。ボリュームはすごいがかなり美味しい。
さて、お祭りで賑やかな阿南町を離れ、伊那谷へと天竜川流域を戻る途中、20キロほど急坂を下って北上した下條村の合原(ごうはら)の集落へと至る。ここに合原阿弥陀堂はある。緑の深いのんびりとした部落である。
阿弥陀堂は地域の集会場のようだが、建て直す前は茅葺きのお堂であったそうである。
室町時代初期から戦国時代にかけて、武田氏の庶流である下条氏がここの対岸の吉岡城にてこの阿南地方を治めていた。下条氏は城の鬼門にあったこの阿弥陀如来に帰依したというが、仏像は平安後期のものと考えられることから、寺院は少なくとも平安時代からは存在していたと考えられるようだ。
世話役の女性は明るく私たちを招き入れて下さった。お堂に入ると、すでに最も奥の鉄の分厚い扉が開かれていた。
阿弥陀如来坐像(藤原時代)ヒノキ材割矧造 像高87cm 長野県指定文化財
現在は素地になっているが、最近までは漆が遺った状態で塗られていたようだ。
損傷が酷くなってきたことで合原区の住民が修理復元を企画し、専門家に調査を依頼、塗装を剥がして平成3年に東京にて修復され、現在の状態になったのだという。
素地が本来の状態のようであるが、木がやや黒い雰囲気なのは修理の影響であろうか。
半月のような目の造形がまた藤原時代っぽい雰囲気を伝えてくれる。
やや下ぶくれな丸っこい顔がとても暖かみがあって、前に座っているといつまでもそこに落ち着いていたくなる雰囲気を持っていると感じる。
螺髪は彫り出しだが、きれいに整然と並んでいる。
白毫は新しいのだろうか、キラキラしている。
全体の造形の印象は、彫りが薄い、ということであろうか。衣も浅く薄く彫られているようである。これも藤原様式らしい表現であろうか。
衣紋の表現もあっさりしている。結跏趺坐を組んだ足の衣紋も簡略的に見える。しかし偏担右肩の衣のカーブや、左腕に垂れる衣のカーブなどは非常に美しい。素朴な中に美しさを感じる仏像である。
厳重な扉に守られた阿弥陀如来像の両脇には、たくさんの石仏が並んでいる。旧お堂にも同じように祀られていたようだが、西国三十三ヶ所の観音石仏である。千手観音がなんだか妖精のようでかわいい。
外に出ると、午後の日差しが真っ青な空にまぶしい。周囲を見回すと、山は深いがのんびりとした風景にはホッとさせられる。そんな穏やかな山村にぴったりとくるような阿弥陀如来であった。
【合原阿弥陀堂(ごうはらあみだどう)】
〒399-2102 長野県下伊那郡下條村陽皐2109-1
TEL:0260-27-1050(下條村教育委員会)
拝観:要予約
拝観料:志納
駐車場:なし(近くの公的な施設の駐車場に止めることができる)
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