今年の冬は雪の降る日が多く、その量もかなりのものだった。私の住む東京都多摩地区の西部でも、多いときは積雪60cmという状態で、東京に来てからではもちろんのこと、それどころか、愛知にいた頃と比べても最も多かったのではないか、と思う。
そんな大雪になってしまった日に仏友たちと茨城に行こうという計画を立てていたのだが、そこまでの雪ではとても無理ということで延期になっていた。
ようやくの春を迎えて、周囲は桜も満開かそろそろ散りそめのこの日、いざ茨城へとスタートした。
東京でワゴン車をレンタルして常磐道を一路北東へ。水戸を通りすぎて少し行った那珂インターで降り、北西の山間へと1時間弱走る。東京からは2時間少しで、最初の目的地である菊蓮寺に到着した。
里山の懐に抱かれたような、素朴で美しいお寺である。東京ではすでに散り始めている桜も、この地ではまだ七分咲きといったところ。しかし小ぶりな桜は少し早咲きのようで、満開で青空にきれいに栄えている。
菊蓮寺は、807年に行讃上人が開山したという。蓮華の上に舎利があって菊の花が光り輝いた、という霊夢を見てこの地に開かれたという由来から寺名がつけられているそうだ。当初は天台宗だったようだが現在は浄土宗になっている。
この寺の由来を調べていくと、この周辺一帯の仏教文化については複雑であることがわかった。
調べれば調べるほどいろいろ出てくるが、かつてはこの一帯はかなりの霊場であったことは確かのようだ。もともとは役小角が開いた金砂山(かなさざん)に由来するという伝説が残るが、慈覚大師円仁が菊蓮寺よりも東側にあたるその金砂山一帯に、日光での信仰から伝播した天台道場を開いたとことが実質的な始まりのようだ。金砂山は東西に別れた霊場であったようだが、そのうち東金砂山には薬師如来が、西金砂山には日光の補陀洛信仰からの千手観音を本尊とする定源寺が別当寺院として置かれていたという。寺院および習合した神社は一大拠点をなしたようだが、徳川光圀の神仏分離政策によって寺院は追いやられていくことになった。
さらに、この東西の金砂山は天然の要害であったことから、当地を拠点とした源氏の一派(常陸源氏)である佐竹氏の戦略上の拠点としても使われることになる。佐竹氏には、他国から攻められたとき、拠点の太田城が危うくなると金砂山にこもって戦う、という伝統があったそうだ。源頼朝によって攻められた金砂山の戦いの折、西金砂山の本尊であった千手観音は燃えてしまったという。
そんな激動の過去を感じさせることのない現在は穏やかな山村を望む菊蓮寺の山門をくぐると、 ご住職が降りてきて下さって観音堂(収蔵庫)の大きな重い扉を開けて下さった。
お堂の中に入ると、中央に巨大な仏像、両脇には等身大の脇侍仏の三体がドーンと目に飛び込んできていきなり圧倒された。
千手観音菩薩立像(鎌倉時代)ヒノキ材寄木造 玉眼 像高350cm 県指定文化財
大きい!かなりの迫力である。茨城県下では二番目の大きさなのだそうだ(最大は石岡市の峰寺山西光院にある十一面観音菩薩立像)。
その大きさを感じさせるのは背の高さだけではなく、圧倒的な存在感をもっている脇手の造形であろうか。ニョキニョキと太い38本の腕が、普通よりもやや低い位置から翼を開くように生えている。定印と合掌の4本を合わせた42手の千手観音であり、持仏は失われているものがほとんどだ。
この千手観音は先述の定源寺の焼けてしまった千手観音の代わりに造られたそうである。しかし、水戸光圀の神仏分離の影響で廃寺となった定源寺から運び出され近隣にうち捨てられていたと住職はおっしゃっていた。こんな大きな仏像が野良に転がっていたとは驚くだろう。それを近隣の住民が運んでこちらへと収めたという。
しかしそんな悲しい時代は知らないとばかりに、この観音はかなりキリリとした涼しい顔をされている。目が玉眼であることもそう感じさせる一因かもしれない。像全体が素地のような状態で玉眼というのは何だか不思議な雰囲気がある。
大きさにばかり眼が行くが、よくよく顔を見ると、頬や顔の造形、耳たぶの造形など、まとまったバランスの良さでとてもきれいだ。
お腹や手先などはかなり荒い彫りである。局所的に見られるものの、いわゆる鉈彫りの技法ではないように見え、これは表現手法なのか後補や修理の痕なのかはよくわからない。存在感抜群の脇手などは、そのややプリミティブな造形と合わせて、荒い彫りがますます迫力を感じさせていると言えようか。
伝千手観音焼損像(平安時代)像高368cm
ふと見ると、千手観音の右後ろ背面に、サラシで巻かれた大きな黒い塊が壁にもたれかかっている。
先述の金砂山の戦いの際に燃えてしまったという本尊であったと伝わっているそうだ。現在の本尊よりも一回り大きい。松尾寺(奈良)の焼損像を否が応でも思い出すが、今は自らの新しい姿である千手観音とともにここに大切に祀られているのは何とも不思議な話だ。こちら向きになっている面がちょうど背面にあたるようで、正面は完全に焼けてしまった、ということだろうか。痛々しい。
不動明王立像(平安時代)ヒノキ材一木造 彫眼 像高162cm 県指定文化財
千手観音の迫力に圧倒されてしまいがちだが、この2体の脇侍には惹きつけられるだけの雰囲気がある。千手観音は焼けてしまったが、脇侍の2体は比較的小さいこともあって背負って運び出されたもので、当時の貴重な証拠でもある。
左目がやや小さく、左右非対称の天地眼、牙を上下に出す利牙上下出相ではあるが、髪の毛は総髪で辮髪を左に垂らす形であり、十九観様式と大師様式の混在タイプである。ヒノキ材だとこういう表出になるのかよく知らないのだが、木目がとてもきれいで、彫りに合っているところはとりわけ独特な良さがある。
彫りが細かいところまで行き届いている雰囲気で、上半身の肉付きや腰のくびれなど、その造形のバランスが平安仏らしい雰囲気を伝えてくれるものの、平安前期よりは後期に属する状況であることは見て取れる。康慶作という寺伝であるが、おそらくそれは伝承の域であろうか。しかしいずれにしても非常に素晴らしい造形である。腰布から下半身の衣紋の造形がとてもきれいだ。
髪の毛は三つ編みではなく捻るようにまとめている。耳が大きい。
木造多聞天(毘沙門天)立像(平安時代)ヒノキ材一木造 彫眼 像高168cm 県指定文化財
千手観音の脇侍が不動明王と毘沙門天というのは天台様式というそうだが、菊蓮寺の三尊像もその形として遺っている。
なかなかいかめしい表情をしている。唇が厚く、表情からしてもどちらかというと南国系の異国情緒を感じさせるものがある。とりわけ印象的なのが、木目が盛り上がるように見える眉毛などの造形である。また、右頬にある丸い造形は何であろうか。修理痕なのかわからないが、ちょうど真上にある髪留めの側面の丸い造形と似ているのでちょっと気になる。
髪の毛の造形がのっぺりとしていて彫っているようにも彫っていないようにも見えるが、木目を利用しているようにも見える。彩色があったと見えるが、この辺りはどう造形されていたのだろうか。
体部は大きな補修が行われているのかもしれないが、甲冑ものっぺりとした雰囲気で、詳細な彫刻はされていないのが特徴的。それでいて腕の衣紋の開きや、そこから垂下する衣などはむしろ大げさな程で、細い体や足とも相まって、何とも言えない独特な存在感を醸し出している。
木造女神像(平安時代) ヒノキ材一木造 像高115cm
破損仏に近い状態ではあるが、その造形をよく遺している。現在は千手観音背面の壁にもたせかけられるようにして安置されている。吉祥天かな、とも思ったが、拱手する状態であることや、金砂山全体が神仏習合の霊場であったことから女神像として考えられているようだ。吉祥天は片手で宝珠を持って片手を下げている作例が多いことから、なるほど、という気もする。
数奇な運命を辿ってきたこの5体の仏像たちは、今やようやくにして安住の地を得たことをどう感じているだろうか。
ご住職のご厚意で本堂にも案内していただく。
本堂には、現在は浄土宗なので金色の阿弥陀三尊がいらっしゃった。庫裏には素晴らしい油絵が並び美術館のようであったが、何とこれはご住職ご自身が描かれたものだという。多才なご住職である。
とても丁寧に接して下さったご住職に深くお礼を述べて、のどかな春の光の山村を後にした。
〒313-0101 茨城県常陸太田市上宮河内町3600
TEL:0294-76-9244
拝観:要予約
拝観料:志納
駐車場:お寺のすぐ下に広い駐車場がある(無料)ただし県道から入る道は狭いので大きな車は要注意
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