宿院仏師。仏像好きでも、この名前をあまり耳にしたことがない人は多いだろう。かく言う私もつい最近まで全く知らなかった。
宿院というのは地名であり、現在の奈良の宿院町、奈良女子大学の南のあたりのことである。もともとは藤原氏のための春日祭勅使のための宿坊があった場所なのだそうだ。宿院仏師は室町時代、その辺りに住して活躍していた。この仏師集団が、著名な慶派や院派、円派などの仏師集団とは決定的に違うところがある。それは、僧侶ではないということである。
それまでは仏師=僧侶というのが一般的だったのに対して、僧侶でない仏師、つまり「職業仏師」とも言えるプロ集団は、全くもって新しい存在となる。その後、江戸時代へとかけて、「仏師屋」と号する職業仏師の先駆けとなったのがこの宿院仏師であった。
宿院仏師の源流を見ると、本来は仏像の彫刻をする仏師でもなく、大工に近い仕事であったようだ。海龍王寺地蔵院に住した仏像作家でもあった沙弥仙算のもとにいた木寄番匠として活躍していた頃に始まるという。「番匠」とだけ言うと大工集団のようなものらしいが、中でも「木寄番匠」とは、仏像製作のための用材である御衣木(みそぎ)の用意を主な仕事としていた。仙算のもとでは、木寄番匠として源四郎と七郎太郎が活躍していたそうだ。
これらの番匠たちのリーダーが、仙算から東大寺大法師・実清(じっけい)に移り、その華々しい活躍もあって、宿院番匠たちは単なる木寄番匠ではなく、「助作」として銘文にも遺されるようになり、仏師との共同作業的な側面を帯び始めてくる。
そして享禄5年(1532年)、源四郎およびその息子である源次は実清から独立して出家することなく仏像を製作し始めた。宿院仏師の誕生である。源次が棟梁となり、その息子である源三郎、源四郎、源五郎などを引き連れて仏像の製作に当たっていく。そして宿院に「なら宿院仏師屋」を開き、職業仏師として活躍していくのである。
宿院仏師は職業仏師集団の先駆けというだけではなく、南都仏師としてのしっかりとした技術と系譜を持った集団としては、最後の存在であることも注目するべきところなのだそうだ。正統的に南都仏師の系譜を引き継いだ造形をしているようで、共通性がありながらも仏師それぞれの個性はよく出ている点、また、番匠であったことから木と木目を生かして造形している点など、なかなか興味深い。今後、注目されることもあるのでは、という気がする。実際に私も、人気ブログ「ひたすら仏像拝観」を見て興味を惹かれ、こうしていろいろと調べているわけである。
宿院仏師研究の第一人者である奈良国立博物館の鈴木喜博先生によって論文が発表されたり講演会が行われていたりするので、今後、機会があればぜひ拝聴したいと思う。
さて、西念寺へと向かおう。
子どもの頃から、実家の愛知から奈良へと向かう時は三重県からの名阪国道を使う。
名阪国道は、三重県の伊勢湾側から伊賀盆地を通り、深い山間部を越えて、最後に長い坂道で広大な景色を眺めつつ大和盆地の天理市へと下るのであるが、その下る少し前の山間部に福住(ふくずみ)というインターチェンジがある。奈良側から行くとなると、天理からはるかに坂道を登った先にあるのが福住である。
福住インターチェンジからほど近いところの穏やかな山村に、やや散り初めのしだれ桜が美しい西念寺はあった。
庫裏を訪ねて住職の奥様に観音堂を開けていただくと、きれいに飾られた花の向こうに、凜として立つ観音像がすぐ目に飛び込んできた。
十一面観音菩薩立像(室町時代)像高182cm 玉眼 寄木造 奈良県指定文化財 享禄4年(1531年)
この像は福住地区に古代からあるという氷室神社の神宮寺であった長楽寺の本尊であったが、廃仏毀釈で寺が破却された際にこちらに移ってきたという。
今は錫杖は持っていないが、右手の親指を折っていることからもともとは錫杖を持っていたと思われる造形であり、左手の水瓶をギュッと握っているところなどからしても長谷寺式の十一面観音であることがわかる。
鎌倉時代までの仏像を見慣れた目には、ちょっと異質に映るかもしれない。髪の毛と唇、ヒゲ以外は彩色がなく、素地のままだ。素地ではあるのだが木の風合いが良く、仕上げがとてもきれいだと感じる。木目も美しく、これも番匠としての経験を生かしたものと言えるのだろうか。
この仏像は、源四郎および源次親子が宿院仏師として独立する直前のものらしい。宿院仏師の仏像には像内銘が遺されており、この仏像も首の内側にこう記されている。
作者東大寺住侶/實清大法師也/助作源四郎源次/享禄四六月廿八日/御トノ丸以下四人
実清が作り、助作として源四郎、源次が当たり、それ以外にも御トノ丸などがいたことが書かれている。
先述のとおり、源四郎や源次などは木寄番匠であったのがだんだんと共同制作者のような側面を持ち合わせてくるのであるが、その宿院番匠たちが「助作」として記された銘文はこの像が初見なのだそうだ。助作とは大仏師に対しての小仏師というものに当たると推測されている。
宿院番匠たちがまだ実清のもとにいた頃の仏像ということになるわけだが、造形からしても、実質的には源四郎か源次が主に製作し、実清はプロデュース的な役割だったのでは、と考えられるのだそうだ。この後の宿院仏師作の仏像を見ても、なるほどそうかもしれないと感じるほど造形は特徴的だ。
この仏像から受ける最も強いインパクトは目だろう。
目の造形は、宿院仏師の仏像の最大の特徴と言ってもいいのかもしれない。宿院仏師の作る目は、玉眼でクッキリ、ややつり目、という形で作られることが多いようだ。目の開き具合は宿院仏師でも人によっても違うようではあるが、他の仏像を見ても、目の造形は宿院仏師を象徴するものではないかと思う。
唇のピンクさなどもちょっと慣れない雰囲気はあるが、彩色は後世の修復が入った仏像もたくさんあることなので気にしないとすると、やはりそのキリリとした凜とした雰囲気はなかなかのものだな、と感じる。
宿院仏師の最盛期は、造形の素晴らしさからして、源次と源三郎が中心だった時代ではないかと感じるが、その頃に製作された大福寺(奈良県広陵町)十一面観音立像は非常に素晴らしく、目が離せなくなるほどである。この西念寺の観音像は、これから盛り上がりを見せていく宿院番匠たちが仏師としてスタートを切った仏像であり、宿院仏師の持つ造形力の源流をしっかりと携えていると言えるだろう。
観音堂にはもう1体、厨子に入った薬師如来坐像が安置されている。
小ぶりな像で、頭は清涼寺式釈迦如来のような縄をぐるぐるしたような造形だ。宿院仏師という資料は確認できなかったが、目に特徴があり、また、鼻の造形も実清時代の造形に似ているようにも見える。ひょっとするとこちらも宿院仏師が関わっているのかもしれない。
かなりゆっくりと拝観させていただいて観音堂を出ると、ご住職がちょうど出ていらっしゃって、「お茶でも飲んで行きなさい」とお誘い下さり、時間の許す限り、ゆっくりといろいろなことをお話させていただいた。楽しい時間であった。
宿院仏師の仏像はやや形式的とも感じる部分はあれども、木取りの美しさや目力、体躯のバランスなども良く、それだけではなく、何とも言えない味わいがあると思った。また、遺されている宿院仏師の仏像の多くが、著名な大寺院ではなく地域のお寺に祀られているという。高い身分の人が作ったお寺ではなく、地域の人々が親しみと尊敬を込めて身近に感じつつ守ってきた仏像でもあるのだ。南都仏師の系譜をしっかりと引き継ぎつつも、何となく垢抜けない親しみやすさ。先述の「ひたすら仏像拝観」の中の人である迦楼馬さんもおっしゃっているように、そうしたところが宿院仏師の仏像の良さなのかもしれない。
インターチェンジに向かう途中に、笠をつけたような大きな地蔵の石仏があった。
今はのどかで静かな山村であるが、古くからの神社や素晴らしい仏像があり、こんな立派な石仏があったりと、かつては文化薫る地だったのだろうな、と十分に感じた福住の町であった。
【参考文献】
鈴木喜博「宿院仏師—戦国時代の奈良仏師—」(奈良国立博物館 特別陳列『宿院仏師—戦国時代の奈良仏師—』図録 2009)
【参照サイト】
ひたすら仏像拝観
【西念寺(さいねんじ)】
〒632-0122 天理市福住町7146
TEL: 0743-69-2074
拝観:要予約
拝観料:志納
駐車場:門前に広い駐車場あり(無料)
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