奈良といえばやはり何と言っても東大寺であり、そしてやっぱり奈良の大仏である。
私にとって東大寺はトップクラスに好きな寺院であり、よく訪れるが、大仏殿にはあまり入らない。
もちろん、大仏さんは私も好きである。小学生に入る前くらいに初めて意識をして見た大仏さんの思い出は、「真っ黒だ」「でっかい」という記憶くらいしかないのであるが、その後、数えきれない回数奈良にやってきても、やはり奈良はこの大仏さんを中心にして回っているようにしか思えないし、どでかい大仏さんの前に立つと、あぁ奈良に帰ってきた、という気がするのも事実なのだ。
とは言え、仏像好きな人たちがついスルーしてしまうのは、15mもの大きさでどうしても大味になってしまうこともあり、大仏さんは好きでも、それはまぁ、仕方ないな、とは思う。
友人を案内するということもあり、久しぶりに大仏殿に入り大仏さんにご挨拶にやってきた。せっかくなので、今回のエントリはちょっと趣向を変えた内容でお届けしてみたいと思う。
盧遮那仏坐像(東大寺大仏) 銅像鍍金 像高14.7m 天平時代 国宝
誰もが一度は目にしたことがあるであろう世界に名だたる奈良の大仏さんである。
天平時代作ということで国宝に指定されているのだが、やはり少し違和感はある。というのも、江戸時代に作られた部分がほとんど、というイメージが強いからである。しかし、近年の松山鉄夫および東京芸大の調査によれば、お腹から下半身は天平時代の部分が比較的良く遺っているという研究結果も出ていたりする。それによれば鎌倉時代の修補部分が最も残存が少ないらしい。
天平時代に作られた大仏は平安時代になるとずいぶんと崩れてきていて、頭が墜落してしまったりしながらも、背面に築山をくっつけて何とか保っていたというが、その後、平重衡の兵火によって焼け落ちてしまった。しかし鎌倉時代には俊乗坊重源が、それこそ血がにじむような苦労をして再興したのである。
この鎌倉の東大寺復興はものすごくて、大仏殿も天竺様でかなり大きくなったりもしたし、何と言っても、慶派スター軍団が、大仏殿内の巨大四天王像や、今に遺る南大門仁王像を制作しているのである。残っていてほしかったなぁ、と思うが、その数百年後には再び、松永弾正と三好三人衆の戦火で焼け落ちてしまう。その時の戦火は相当に凄まじかったのだろう、『多聞院日記』には、大仏は「湯とならせ給う」と記されているそうだ。籔内佐斗司氏は、復興時に融点の低い金属を使ってしまったためではないか、と述べている。下半身に天平時代の部分がよく遺っているのであれば、天平時代は融点の高い金属を使った、ということなのであろう。
この乱では仏頭のみが焼け落ちたという書も見るが、実際には肩や腕など、体部もかなりの部分が溶け落ちたようであり、その後、山田道安の尽力で体部は復興するものの、頭部は木彫に銅板を張って何とか体裁を整えていた有り様だったという。
さて、非常に長い前置きであったが、今回はこの大仏さんの顔の話である。
今の大仏さんの顔はツルツルしていて、顔だけやたらとお肌が美しい。先述の通り、体部までは戦国末期に復興されながらも頭部のみ復興できず、さらに雨ざらし状態だったものを、江戸時代初期に公慶上人が現れ、またまた血の滲むような苦労を重ねて復興したのが今の大仏である。大仏だけではなく今の大仏殿や回廊、中門も再興するという、現在の東大寺にとってはまさになくてはならない存在だったのが公慶上人である。
現在の大仏さんは、頭だけが新しく、さらに頭ができてから十数年後に大仏殿が再建されているので、頭部だけは風雨や日光に晒された期間が非常に短いのだ。ツルツルしているのはそうした理由からなのである。
そのツルツルな顔であるが、とてもおおらかで優しい表情で、それが奈良の大仏さんの良さでもあると思うのであるが、さて、果たして天平創建時の大仏さんはどんな顔だったのだろうか?
少々乱暴ながらソゾタケ的に勝手に妄想してみたいと思う。
今の顔はやや四角いが、おそらく天平時代は違う造形であったと思われる。もちろん復興時に意識はしただろうが天平風ではない。大仏殿に唐破風が取り付けられたことからしても、興福寺の鎌倉復興時に慶派が天平への回帰を強く意識して造像したのと同じようにしていたかは、果たしてわからないところでもある。
天平時代の大仏の姿を著すものとして著名なのが、平安時代作の「信貴山縁起絵巻」だが、その大仏の姿を見ると、印象的なのは今よりも丸くてやや面長の顔で、おちょぼ口で少し微笑んでいる、ということだろうか。唇に朱がさしてあるのもインパクトがある。写実性には乏しい当時の絵ではあるが、印象としては今の大仏さんとは大きく違うようにも見える。二重円光背であるとか、化仏であるとか、印相であるとか、そうしたものは同じようだ。
鎌倉復興時の顔は平安仏のような和様であったようで、それ以前の唐風な顔に慣れた人々は違和感を感じたといわれている。鎌倉復興時はおそらく藤原時代の定朝様ように満月のような丸顔だったのであろう。
仏像研究的には、当時の姿を想像するためには、同じ時代の似た部類、近い地域の仏像を参照するというのが一般的だろう。
しかし、である。
天平時代の中央の如来坐像は、実はほとんど遺されていないということに気づいた。思いつくだけでも、唐招提寺金堂の盧遮那仏坐像くらいだ。同じ盧遮那仏だしちょうどいいと思ってしまいそうになるが、唐招提寺像は以下の点においてあまり参考にできないと考えられる。
唐招提寺の仏像は、日本にはなかった大陸の表現で作られているものがほとんどだ。金堂の盧遮那仏像は鑑真の高弟で、唐から鑑真と共に来朝した義静(ぎじょう)が造像したと記録に残る。脱活乾漆像ということで、義静監修のもと、国家事業として造東大寺司が造像に当たったと思われるものの、その表現は唐風色が著しく濃い。時代的に東大寺大仏も唐の影響を受けてていたであろうが、唐招提寺像はとりわけ切れ長な目、沈鬱さを感じさせる表情など、大陸的な風合いがひときわ強い。衣紋などに日本の天平仏との共通点は見られるものの、全く違う雰囲気を持っている。鑑真が奈良にやってきた754年にはすでに大仏は開眼供養を終えていたこともあり、大仏の表情に関しては、あまり参考にはできないと考えられる。
天平時代で、金銅仏、如来、となると、比較的近い時代であれば薬師寺金堂の薬師如来ということになるだろうか。あとは蟹満寺釈迦如来坐像。いずれも白鳳時代の作であるが、時代的には天平時代に近い。薬師寺像は藤原京時代の仏像を参考にしている可能性も高いと思われるため違いも大きいだろうが、これらも候補のひとつだろうか。ただ、衣紋等の表現には根本的な違いがあったりもするので、どこまで表現として参考にして良いのかは議論の分かれるところであろうか。
あとは、東大寺戒壇院の本来の本尊である多宝如来と釈迦如来坐像である。こちらは同じ天平時代かつ東大寺、また坐像で銅像の如来形、ということで最も近いと思うが、なにせ小さい上に造形もあまりハッキリしていない。像としてはかわいらしく私もとても好きだが、顔を想像するためにはもう少しビビットな例が欲しいところ。
そこでふと思いついた。同じ天平時代、同じ東大寺で如来形、そして金銅仏・・・。そう、誕生釈迦仏(国宝)(愛称・シャカタン)である。
そもそも考えてみると、ブッダは生まれてから悟りを開くまでは如来ではなかったわけであるから、生まれた時に螺髪であったりするのはちょっとおかしいのであるが、まぁそれは置いておいて、この誕生釈迦仏の表情は、白毫がなかったり上半身裸という以外はまさに如来そのものの造形である。東大寺における天平時代の如来の表情の造形を見るには、ちょっと乱暴だが、もってこいの存在と言える。
ということで、合成してみることにした。写真は微妙な角度を合わせやすいということもあり、東大寺オフィシャルのシャカタンフィギュアの写真を使ってみることにしよう。正直なところ、実物とは結構違うのであるが、それでも特徴は押さえていると判断した。
大仏の下半身は天平時代のものが多いのでそのままで問題なし。胴体部分は鎌倉〜室町時代であるが、体部の造形は、「信貴山縁起絵巻」からすると衣紋がやや違いながらも、そんなに大きな変更があるとも思えないバランスなのでそのまま。顔だけの合成にしてみる。
当時は鍍金(金メッキ)されていたので、体全体がゴールドに輝いていたであろう。陸奥で産出された金では足りずに、開眼法要時は顔だけが金だったというが、とりあえずすべて作り終えた状態、ということで考える。
NHKの時代劇「大仏開眼」で使われた、時代考証をした上で作られたという、こちらの当時の大仏の予想模型も参考にした。こちらはあまり天平っぽい雰囲気はない顔立ちで、むしろ鎌倉時代っぽい造形になっているので、色と雰囲気のみ参考にした。
ということでこうなった。
ジャン!
はい、期待して見てくれた人ごめんなさい、って感じかもしれないが、顔はシャカタンフィギュアから合成し、当時の時代考証から、髪の毛は青く、唇は「信貴山縁起絵巻」にも描かれるように朱が入った形。シャカタンは目がニッコリしていて開いていないので、白目と黒目を少し入れている。桓武天皇の時代には全体の金メッキが終わっていたということで、あまりうまくいっていないが全身がゴールド、という感じである。
今よりもやや細面、ということなので、わずかに縦に伸ばして、少し顎を細くしている。像高が現在よりも1mほど高いのは、おそらく首の造形が違うことと顔の造形の違いではないかな、と作っていて何となく感じた。今の大仏は首がやや短い。あと、シャカタンにはない白毫は、現在の大仏のものを載せて合成した。
でも今はゴールドじゃないからねぇ、という意見は聞こえてくる気がするので、このまま現在まで遺っていたらどうなっていたか、今の大仏さんの色に合わせてみるとこうなった。
こうなると何だかしっくりくるのはこの色に見慣れているせいか、ただ単に先ほどのゴールド合成がイマイチだからか…。
現在の大仏さんとはずいぶんとイメージが違う。若々しく暖かい雰囲気もあってこれはこれでなかなか良い。天平時代的でもある(天平時代の仏像の写真を合成しているから当たり前だが)。
ただ、忘れてはならないのは、これはあくまでもシャカタンの顔、ということである。シャカタンは生まれたばかりの赤ちゃんなのである。ここから数十年以上の幾星霜を重ねた顔・・・、と考えると、今の大仏さんの顔は、天平的ではないかもしれないが、決して大きく違う造形ではないと言えるのかもしれない。
やっぱり奈良の大仏さんは今の大仏さんでいいのだ。
何だかこの妄想合成を通して、今の大仏さんに今まで以上に愛着が湧いてきたような、そんな気がした。
【東大寺金堂(大仏殿)(とうだいじこんどう・だいぶつでん)】
〒630-8211 奈良県奈良市雑司町406-1
TEL:0742-22-5511
拝観料:500円
拝観時間:最長7:30〜17:30 最短8:00〜16:30(時期によって細かく変動するので詳細はウェブサイトを参照)
アクセス:近鉄奈良駅から徒歩30分
駐車場:近隣に有料駐車場がある
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コメント
コメント一覧 (2件)
はじめまして。
素敵なブログ、ダイナミックな写真をいつも楽しみにしております。
「この角度でゆっくり見たかった」という写真が満載で、
本当に感心、感謝です。
先日は、こちらのブログで知った岐阜の円明寺へ行って参りました。
弁財天の御厨子の扉は開けてもらえませんでしたが、
木造の素朴な仏様に、心洗われました。
ご紹介、ありがとうございました。
★
近々、滋賀県木之本にある己高閣・世代閣へ行こうと計画しております。
ソゾタケ様は行かれましたか?
緑の美しいこの時期、
ソゾタケ様の足元にもおよびませんが、写真をいっぱい撮ってこようと思います。
>河合登茂子さま
はじめまして。ブログをご覧いただきありがとうございます。
さらにとても暖かいお言葉、感謝感謝です!本当に励みになります。
円明寺に行かれたのですね!可児市の隣の犬山市出身の自分でも全く知らないお寺だったのですが、
あんなに充実したお寺だったとは驚きでした。仏さま、素朴でとてもいいですよね。
ぜひ今度はご本尊の薬師如来坐像のご開帳の際にお邪魔したいと思っています。
己高閣と世代閣は何度か訪れたことがあります。湖北の観音さまたちは本当に素朴で美しいですよね。
いいですねー。お話を聞いてまた行きたくなりました。
今後もどうぞよろしくお願いします(^ ^)